この第10章は大変マジメな内容でしてカスタネダの理論を本気で実践しようとする人たちには重要な章かと思いますが、私には宝の持ち腐れです。
1969年5月31日にドン・ファンを再訪します。
”見る”ことに再挑戦したいと言いましたが、前回守護者から受けた『傷』が治るまで待てと言われてしまいます。
傷からの回復に関係があるのかないのか、成り行きで戦士に必要な「意志」についての説明がはじまります。(182)
「意志」については、以前「分離 5 管理された愚かさ」(分離104)で初めて登場していた用語です。
途中の行を省いているので感じがいまひとつですがドン・ファンが言う「意志」を理解するために下記をピックアップしてみました。
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「意志とはわしらの行動を命ずることのできる明晰で強力なものだ」
「一種のコントロールと言ってもよかろう」
「お前の意志(will)は少しずつだがお前に裂け目(gap)をつくりはじめてるんだぞ」
「わしらのなかには裂け目があるんだ。自分の意志を発達させるにしたがってこの裂け目が開いていくのさ」
「どこにあるの?」
「輝く繊維のところさ」自分の腹のあたりを指さしてこう言った」(分離184)
「呪術師が意志と呼んでるものはわしらの内部にある力のことだ」
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腹のあたりってのは、いわゆる丹田・太陽神経叢のあたりですかね。ニューエイジや東洋で定番の。(「東洋」って言い方は雑ですが)
「意志談義」は翌日の1969年6月1日まで続きます。
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「お前が意志と言っとるものは気骨とか強い気質のことだろうが、呪術師の言う意志は内部からやって来て外の世界にへばりつく力なんだ。そいつは腹から出てくる。そうここだ。輝く繊維のあるところだ」彼はその場所を示してヘソをなでた。
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やはり丹田のようですね。
「強い意志をもった偉大な呪術師でも”見る”ことのできん奴」がいるそうです。(分離186)
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(ドン・ファンの恩師は)偉大な呪術師だったがわしやジェナロが”見る”ようには”見る”ことができなかったんだ。
”見る”ことができれば、そいつは戦士とかそのたぐいみたいに生きる必要はないのさ。(恩師は戦士として生きにゃならんかった)
お前の性格を考えてみると、お前は決して”見る”ことは学べないと思うんだ。そしたら生涯戦士として生きにゃならんことになるだろうよ。(分離187)
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以前もドン・ファンは自分はもう戦士ではないと言っています。呪術師とその能力、あるいは”格”のようなものがいまひとつよくわかりません。
しかも、最近は(といってもまだ二巻目だけど)もう「知者」という用語が登場しなくなってきています。戦士⇒知者という過程を経るのでしょうか?
その場合、やはり戦士という段階は、誰しもが経ないと知者にはなれないのでしょうか?戦士と死の関係についてもピックアップしておきます。
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知が恐ろしいものだってことに気づくころには、死が自分のとなりに坐っていてどかすことのできない相棒だってことにも気づきはじめるのさ。(分離187)
戦士であるにはまずなによりも自分自身の死を敏感に意識せにゃならんのだ。(分離188)
自分の死や解脱や決心の力を十分意識して、戦士は戦略的に生きるんだ。(分離189)
”見る”のを学んじまえばもはや戦士のように生きなくてもいい。(分離191)
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意志の力を示す実例として、ドン・ファンが山の中に入っていてメスのピューマに出くわした話をします。襲われそうになったが意志で手なずけて命拾いした話です。
この話題は、ドン・ファンシリーズ創作説の立証のために引き合いに出されたことがあったと思いますが、一旦ペンディングとさせてください。(pending)
(初出:2016年8月24日「分離10 戦士とは?意志とは?」)