1969年8月8日の日記は、水の精に出会ったあとの反省会から始まります。
緑色の霧(水の精)は、守護者(ブヨ)みたいに”見る”ためには打ち負かせなければいけないのか?とカルロスが問います。
「そう。あらゆるものにうち勝たにゃならん」
戦士ですからでしょうか?
どうすれば勝てるのか?と尋ねると、
「守護者の場合と同じさ、そいつを無にしちまうんだ」
ふーむ。ようやく「どのような状態を”勝った”というのか」がわかりました。
でも、どうすれば無にできるのでしょうか?
「相手に関して、何の感情ももっとらんかったら無にできる」(分離213)
なるほど。
この「無にしちまうんだ」の発言をいわゆる俗っぽい「勝ち負け」で解釈すると対決してやっつけるからボワーンと無くなるみたいな受け取り方をしてしまいますが、ドン・ファンが言いたいことはこちら側が「見る」状態くらいまで知覚を訓練すれば、心も鍛錬されているし相手に関して感情をコントロールできるので害のある影響力もなくなってしまう、みたいなことではないのでしょうか。
だから「すべてが無になる」みたいな表現になるのだと思います。
この精霊たちは、これまでのドン・ファンの言を振り返ると精霊イコール「盟友」です。
シリーズの後の内容で盟友を「抑え込む」みたいな表現があったと記憶しています。これも「打ち勝つ」と同義でしょう。(pending)
呪術師は盟友を「使役」するようですので文字通り「無くなって」しまったらこっちとしても困るわけです。あくまでも盟友たちは異世界に存在をし続けていて自然体でつきあうことができる、と。
(精霊は非有機的存在とシリーズ後半で明らかにされます)
結局、わかったようなわからないような感じですが、例の「子供のころの約束」と盟友に勝つことの関連性がまたよくわかりません。要するに精進しろということなのか?
守護者も、水の精もシリーズ最後まで読んでも勝ったのかどうかはわかりませんし、カルロスが”見る”ことができるようになったかも不明です。
水はお前の「見る」技術を完成させるための「かなめ」だと言われ、「ブルホが動くために水を使うという勉強」(分離221)のため1969年8月9日煙を川岸でふたたび吸い緑色の霧に再び会います。
霧の中に見えた泡にまたがるように言われ泡についてフワフワ浮いてカルロスは水の中をものすごく遠くまで旅をしたそうです。(分離222)
正気に戻るといつものように用水路につかっていましたが、身体が緑色になってしまいます。ドン・ファンは「水がお前をワナにかけようとしとるんだ」と警告を発しカルロスを逃がします。
カルロスの身体が緑色になったのは、カルロスが自分を投げ出してしまったからだそうです。そして水たまりの精霊に打ち負かされてしまったのだと言われます。(分離225)
でも、このあいだはお前は水の精に気に入られたっていってたじゃないですか。
なんで気に入ってるのにワナにかけるのでしょうか?性悪な恋人みたいです。
ドン・ファンは水に狙われて自己を投げ出すことに対するコントロールを回復するまでは戻ってこないように言われます。
水を避けて3,4か月は身体に触れさせないように指示され、風呂はどうするんだと聞いてくだらないことを聞くなと叱られてしまいます。
実際どうしたんでしょう?歯も磨かなかったのでしょうか?
(初出:2016年8月27日「分離12 泡にのっての旅」)