Maya41『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』25(2/2)

Nannyはいつもの調子でおしゃべりをしていたが、カルロスは、居心地が悪そうだった。彼は雑誌の話に触れてもらいたくないようだったが、Quebecは気にしなかった。
Quebecは、前から彼の出自について疑いを持っていたのだった。

以前、Quebecが南米からもどったときポルトガル語についてカルロスに教えてもらおうとしたことがあったのだが、カルロスは耳に手をやって断ったのだ。ポルトガル語は聞きたくないといったのだ。

変だなと思った。ブラジル出身ならポルトガル語を話すだろう。ブラジル人が嫌いなのはむしろスペイン語のはずだ。だが、カルロスはしょっちゅうスペイン語を話していた。
タイム誌の記事で謎が解けたと思った。

カルロスはブラジルについて何も知らなかったから触れたくなかったんだ。逆にペルーについては詳しすぎるからそっちも話したくなかったんだ」とQuebec。

ニューヨークの雑誌にはカスタネダのパロディが掲載されるようになった。
UCLAのHaines Hallでも騒ぎが広がった。
ニューヨークタイムズの書評担当には苦情が殺到しJoyce Carol Oatesはカルロスの本をインチキだと公言した。

カルロスは公の場にでるのを控えるようになり学校へも博士論文関係の用事のあるときだけしか顔を出さなかった。

カスタネダは、MeighanとGarfinkel、そしてDr.Philip Newmanとあと二人が彼の教官だった。

博士課程には論文のほかに、こまごまとした条件がある。その中には言語能力についてのテストもあった。Meighan教授は、面接で必ず聞くことになっていたのでカルロスが子供の時に何語を話していたか質問した。カルロスはブラジルに住んでいてイタリア語を話していた、のちにポルトガル語とスペイン語を覚えたと答えた。

Meighanの心配をよそにカルロスは言語能力テストをパスした。
そして筆記試験も無事合格した。
彼の博士論文は彼の若干手を加えた三冊目の著作だった。
スキャンダルに沸いていた1973年のことだったがMeighanは、カルロスの味方だった。

その年の春、カルロスが博士号を取得しそうだという話が広まり批判や議論がなどがおきた。カルロスの方法論は、従来の文化人類学のメソッドとまったく違っていたのもその理由だが、他にも教授たちが頭を悩ませていたことがある。それはカスタネダがあまりにも有名になってしまっていたことだ。彼のクラスはいつもあふれるほど学生が押しかけていて学校の実績に貢献もしていた。

教授会の議論はなかなか決着がつかなかったが、Meighanをはじめとする担当教官たちのサポートで認められることになった。

「カルロス自身が文化のはざまにいる。そして彼の情報提供者(ドン・ファン)もだ。
「カルロスの情報提供者は、一部はヤキ(Yaqui族)、一部はユマ(Yuma族)だと聞いている。そして二つの文化のはさまで生きてきた。ひとつは白人社会、アングロサクソンでプロテスタントの世界、もうひとつがメキシコのカトリックの世界だ。二つの文化は世界との接し方がまったく違う。カルロスと情報提供者の二人がぴったりマッチしたのだ。二人はどちらも知的でお互いに世界を理解しようとしている。彼の情報提供者は、呪術の伝統に則った知恵の体系を作り上げた。異なる文化と接するときに生じるあらゆる問題に立ち向かうということで二人は意気投合したのだ」

これがMeighanがカルロスを推す理屈だったが、批判者たちは言った。二人が似た者同士なのは、ドン・ファンとカルロスが同一人物だからだ、と。

カルロスは教授会に自分がブラジルで生まれて幼少期にイタリア語を話したとウソとついたではないか、と。
Meighanは笑いながら「タイム誌の記事には驚かされたが、ぼくは彼が語ってくれたことを信じている」と言った。

教授会は、Meighanを信じて最終的にはカルロスの論文を承認した。
彼の博士論文は『イクストランへの旅』として出版され、カスタネダは億万長者になった。

この後、出版の反響などについての記載がありますが割愛します。

(初出:2018年8月13日)