1955年の夏、カルロスは、カルロス・カスタネダの名前でLos Angeles Community Collegeに入学した。
彼のLACCの入学記録には、彼が1931年の12月25日にペルーで生まれたとなっている。彼がいつから出身について嘘をつくようになったのかは不明だが、ペルー出身を恥ずかしいと思っていてブラジルの方が洗練されていると思ったのかもしれない。
アメリカの教育レベルは高かったが自分の美術の才能について疑いを持ち始めていた。空いている時間に、詩とロマンティックな小説を書き始めたがそれらについての才能も自信はなかった。
彼は内輪の仲間では魅力を発揮したが知らない人々の間では内気だった。パーティーにはでかけず、美術展に行ったり勉強をしていた。彼が先行していた人文科学では一般の科学や文学に加え最初の二年間はジャーナリズムの科目もあった。
それらに加え、二科目、ライティングのクラスを受講していた。
Vernon Kingという先生が彼の小説や詩を評価してくれた。
LACCの最初の二年間は、Madison Streetのそばのアパートに住んでいた。私は、彼の部屋にカーテンを持っていきしつらえた。友達は少なく、部屋に戻って勉強したり書き物をしていた。
このころはたまにデートをした。
彼はLimaのころよりも成長し、静かで、内省的になっていた。LACCのほかの学生よりも大人びていた。というのも、学校には24歳と届けてあるが、実際には彼は29歳で入学したからだ。
彼の目標は、UCLAかUSCかスタンフォードかどこかの美術で学位を取得しアソシエイトになることだった。カルロスもはっきりとはわからなかった。もしアーティストになれなければ、大学の教師になろうと思っていた。おそらく心理学の、彼はプレ心理学を専攻していたので。もしくは考古学、あるいは文化人類学、または文学。
教えることも悪くないと思っていたが、教授になるための競争を考えるとうんざりした。
カルロスは、Lydetteは過去を詮索しないので、彼女と過ごすことを楽しんでいたが、彼女が支援を申し出るとその気を失ったようだ。
1956年の中ごろには私と会うことが多くなり美術展によく行った。
ほかにはバレエ、コンサート、講演会、大学で催される文化イベントに出かけた。
カルロスは映画に魅了されイングリッド・バーグマンの映画とロシア映画が好きだった。
上記の付き合いは、彼が絵を持って私の家に初めて来た時が始まりだった。
私は良いと思ったが彼の中では自分の才能に疑問があるようだった。
私はキッチンへ行ってMateusワインのボトルを持ってきた。このワインはカルロスのお気に入りになって、よく冗談で彼のもっとも大切な先生だと言っていた。
この下りは他の記事でよく言及される有名なエピソードです。ドン・ファン・マトゥスという名前はこのワインにちなんでつけたのではないかとマーガレットは考えています。
私は、彼の絵よりもNevilleのテクニックが実際に効果があったことに驚いていた。
私は、彼にNevilleの”イマジネーションのコントロール”について話をした。Nevilleは夢の力、夢ができることについて教えていた。
カハマルカでは子供たちはみな学校で「Life is a Dream」という本を読むのでおなじみの発想だった。Pedro Calderon de la Barca(劇作家?)も人生は影だと書いている。
カルロスは納得はしないようだがNevilleに興味をもったようだ。
Nevilleも経歴がよく知られてなく謎めいていた人物だった。当時のカリフォルニアでは、彼に限らず多くのニューエイジ関係者たちが勃興していた。
例えば1920年代からサイキック(ESP)研究をしているJ.B. Rhine。
彼はデューク大学に研究室を持っていた。
学生たちもSci-fi映画を製作していた。
カルロスは、故郷でCuranderoを知っていた。未開の知が生んだオカルティズムとして遠ざけていたが、ここカリフォルニアの大学では教育を受けた学生や中流階級がこうした超心理学に夢中になっている。そして、目の前の私、痩せた合理的そうに見える女性が、バルバドス生まれの神秘家をまるでブッダのように話している。
この流行はカリフォルニアだけで起きていたわけでなく全国のごく一般の人たちが何かを求めていたのだ。だれもがオカルトビジネスに夢中になっていたし、私たちも例外ではなかった。
(初出:2018年6月6日)