この章は長いので5つに分割します。
カルロスにドン・ファンを教えた友人のビルという人物は、Alan Morrisonのことのように思える。彼は、ドラッグ研究のガイドであり助手だった。
Meighanは「ドン・ファンのことで問題なのは、そして批判されるのは、彼が唯一の人物だということだ。彼は、実際にはどの部族にも属していない。彼の両親は、どの部族にも属していなかったし、彼はカリフォルニアのインディアンたちと暮らしていたこともあるし、またある時はメキシコのインディアンたちとも暮らしている。彼は純粋なヤキではない。また、彼は非常に知的な人物でもある。私も彼のように知的なインディアンに会ったことがあるが非常に稀な存在だと思う」と言っている。
当初、カスタネダは論文の情報提供者として付き合っていて、自分の論文を書籍にして出版するようなイメージは持っていなかった。
彼の論文では、インディアンの情報提供者の名前は明かされておらず偽名で記されている。後に彼の本では、恩師をJuan Matus、つまりドン・ファンと名付けている。この名前は英語でいうジョン・スミスと同じくらいのありふれた名前なのだ。
Meighanは、1966年まで謎のインディアンの名前を知らなかったし、UCLAの同級生たちは、『ドン・ファンの教え』が発行された1968年まで知ることがなかった。
しかしカルロスは、ドン・ファン・マトゥスという名前を1963年よりも前に決めていた。
彼とAdrian Gerritsenは、1963年のはじめロスのThird Avenueのカフェでカルロスとお昼を食べていた。話題が中央アメリカのインディアンのことになった。
この人物は、C.J.カスタネダの実の父親です。
Gerritsenは、モルモン教の活動の一環で、ユタ、カリフォルニア、ニューメキシコそしてアリゾナのインディアンの居留地のサポートをしていたのだ。
「彼が僕のインディアンについての知識に興味をもったんだ」Gerritsenは当時を振り返る。
「彼は、治療師のドン・ファンについて話してくれた。カルロスは何度も会いにでかけ友達になったと言っていた。ドン・ファンは、カルロスを信頼し、その夏、彼とその仲間に会いに出かけることになっていた。カルロスは、この人物と彼の不思議な話について書く予定だと言っていたが、それ以上詳しく話してくれなかった」
カルロスは、1961年6月23日からノートを記している。
この習慣は彼が弟子の間ずっと続いた。写真もテープも残っていない。弟子になりたての頃は、隠れてノートをとり記憶をたどって会話やできごとを書き起こしていた。ドン・ファンに記録を取ることがゆるされてからは大量の会話を記録している。
しかし、そうした記録にはいちゃもんもついている。例えば、ドン・ファンは本当にジムソン・ウィードに関する説明をしたのだろうか?
したのだとするとカルロスはいつ聞いたのか?
ドン・ファンの説明は、『ドン・ファンの教え』に書かれている1961年の8月23日より前のことだ。少なくともカルロスは、その時点より前に知っていたはずだ。なぜなら彼は、その情報をMeighanに提出した論文に書いているからだ。彼の学部時代の論文には、ダツラの四つの頭についての情報が全部記されているのだ。
カルロスが本で61年に知ったと言っている情報を彼はそれより前に知っていたのだ。
「今、思ってみれば、ダツラの扱いについては、彼の情報提供者(ドン・ファン)の中ではあまり重要視されていなかったからではないだろうか?」とMeighanは言う。
「ドン・ファンの強力な知恵のストックの中でそれほど重要なものではなかったんだろう。だからカルロスが彼の前に現れたさい、ダツラに非常に興味を示してもわずかの情報しか教えなかったのだろう」
ということだとすると、問題はカルロスが書いている日付にいったい意味なんてあるのだろうかという疑問が生じる。むしろ目くらましの一種なのかもしれない。
卒業論文に登場する情報提供者がドン・ファンとは別人物だったということも考えられるが、他の人物が後にドン・ファンが語る内容とまったく同じ知識を語るだろうか?
(初出:2018年7月6日)