カルロスは、ノートをはじめイエローパッドで取ってから原稿に起こしていた。
『ドン・ファンの教え』の実際の原稿は彼のアパートで執筆された。1961年に初めてペヨーテを体験したあとGarfinkel教授に体験を分析して発表を行った。
しかしGarfinkel教授は学生による判断は欲しておらず直接の詳細を知りたがっていたので、カルロスは数年後に手を加えて再びGarfinkelに見せた。
しかし老人の態度はまだ変わっていなかった。
そこで彼は再び原稿に手を加えHaines Hallの三階に厚い紙の束を持って登って行った。
当時、彼は学校を辞めていた。
カルロスは、このころMeighanと呪術師についての話はあまりしたことがなかった。
Haines Hall
「ある日、彼は原稿を持ってきて読んでアドバイスをほしいと言った。私は彼が大真面目だと認識していた。彼はこの原稿を大学の出版局から出版できないだろうか?というものだった。
内容は、当時非常にポピュラーだったドラッグや精神の解放について書かれていたもので、一般的な研究書のように第三者の視点ではなく本人の視点で書かれていて逸話に飛んでいた。
だから私は、この本は科学書の範疇で出版するものではないと思った」
Meighanは、カルロスにHaines Hallの向かいにあるPowell 図書館の地下にあるUniversity of California Pressに相談しにいくことを勧めた。
現在は、「カリフォルニア大学出版局」は別の場所にあります。
また文化人類学の本ではなく一般の商業向けの出版という形で話した方がいいともアドバイスした。
UCLAの教師で早期にこの本を目にしたのは、カルロスは、GarfinkelとMeighanの二人だけではない。
William BrightとPedro Carrascoのところも訪れて熱心に説明をした。もう一人、Robert Edgertonも目を通して批評を加えていた。
University PublicationsにいるMeighanの友人の一人がJim Quebecで、大学院生のカルロスのソノラの呪術師と過ごしたレポートについて耳にしていた。
Quebecは、この本は売れると思ったが彼自身も元は文化人類学者だったので営業部門の意見が大切だと思った。
原稿は何週間も放置されていた。編集会議でも討議されたがなかなか売れるかどうか判断ができなかった。
やはり研究論文として発行した方がいいのではないかという意見もあった。商業的にカルロスは無名だし出版社自体のブランドがアカデミックな印象を与えがちだったからだ。
言うまでもないが、やはり営業部が決定権を持っていた・・いや持っていなかった。
このUniversity of California Pressは、そこらの営利目的に出版社とは違う権威のある会社なのだ。
Harold GarfinkelやWalter Goldschmidtをはじめとするそうそうたる学者たちの本を出版していたのだった。
(Goldschmidtの業界的位置づけ割愛)
William Bright教授は、最初からカルロスを買っていてQuebecに推薦の手紙を書いたし、Goldschmidtもその手紙を読んだ。
GoldschmidtがUniversity of California Pressの編集員だったことは重要だ。
Brightは、カルロスがF.A.Guilfordというフリーランスの編集者を雇って校正作業をする前の原稿の一部を読んでいた。
「この原稿を読んだ。君は絶対に出版すべきだ」とカルロスに手紙を書いた。
Quebecは、文化人類学部から突然いい知らせを受け取った。
彼自身のスタッフであるAtlee Arnoldですらカルロスのことを話題にするようになった。Atleeもこれを素晴らしい作品だと言った。だが、象牙の塔が認めてくれるまではさらに一年かかった。
学校をすでに辞めていたカルロスは、その間ずっと不安にさいなまれていた。
(初出:2018年7月19日)