『教え』の商業的成功が見込まれたのでカリフォルニア大学出版局のニューヨークのマネージャーは大手の出版社との交渉を始め、Simon and Schusterへの再販がまとまった。
Ballantineは1969年にペーパーバックの販売をし10月には再版が決まった。
カルロスはM.A.を取得しなかったが、上級のクラスの授業を受けていて第二巻を書き始めていた。彼は一足飛びにPh.D.をもらうつもりだったが、なかなかむずかしいことがわかっていた。
カルロスはいきなりアメリカでもっとも有名な文化人類学者になったが学内ではそうではなかった。
Meighanだけが味方だった。
カルロスはMeighanが製作しているフィルムの手伝い(インディアンの手のモデルとして)にトパンガ峡谷にある彼の家にでかけたことがある。
Meighanはいう。「こんな助手をやってもらうのは気が引けたよ。でもピクニックだと思って楽しかったよ。彼はとても楽しい相手さ」
このフィルムは学生用の教材として使われた。この同じ夏、カルロスはドン・ファンとの修行を再開したとある。
彼の本によると一旦1965年の秋に弟子を辞めて、この1968年の4月に再開している。
次の月にはカルロスはドン・ファンとHuicholインディアンのペヨーテ・セッションに参加するため北東メキシコへ旅をしている。(彼自身はペヨーテを服用しない)
カルロスはシラフの状態でインディアンたちの様子を観察したかったのだ。(詳細割愛)
続いて現象学についての説明がありますが省略します。
9月にカルロスが学校に戻るとちょっとした話題になっていた。Ballantineブックスは手広く出版することを決めたし、お金も少し入った。二冊目の執筆に取り掛かっており、Ph.D.取得が近づいた。
みなカルロスにドン・ファンのことを聞きたがった。
この頃からメキシコに出かけるときにつけられないように注意をするようになってきた。
この年の10月にカルロスは、ドン・ヘナロに出会い滝登り他の不思議な体験をする。
カルロスによればドン・ヘナロの滝行は1968年の話だが、1971年の出版まで知られていなかった。
それは文化人類学者のPeter Furstが同じような話をUCLAで行った一年間の授業の後の話だ。
このクラスにはカルロスの他に、彼の友人のDouglas Sharonも登場している。彼はペルーのシャーマニズムについて集中的な研究を行っていた。
(初出:2018年7月22日)