~名前の力~
「彼(メスカリト)の名前や彼がどうお前を扱ったかを生きている者に言ってはならんぞ。
「習った歌は、守護者を呼ぶために使い、彼を呼ぶときはいつも彼の名前といっしょに使わなければいけない。
「そのうちにメスカリトは他の目的のための別な歌を教えてくれるだろう」
とメスカリトに教わった名前とマイ・ソングの取扱いについてドン・ファンから注意を受けるカルロス。
こうした「自分のもの(この場合、名前はメスカリトの呼び名ですが)」というのは人に教えてはいけないことになっています。
アニミズムでは、ごく一般的な規則のようで、ファンタジー系の小説やアニメでよく使われる設定です。
自分の本当の名前を人に教えてはいけない、知られてしまうと操られてしまうのだ!の類です。(『ゲド戦記』、『千と千尋の神隠し』・・・・)
ちなみに、私が昔習った瞑想で使うマントラも人には教えてはいけないと言われて、とても宗教がかった感じがしました。
でも、なぜかこのテのことって言いつけを守ってしまうものでいまだに守り続けています。
このパーティーの描写で感じたのは、彼らインディアンたちは、このようなセッションを日常的に開催しているのだろうか?ということです。
それとも、ドン・ファンの要請に応じてカルロスの試練のため特別にしつらえたものなのでしょうか?
シリーズ後半になると、このテのグループシーンがどれもこれも「仕組まれた」機会であることが多く、読者の私も再読ですっかり疑り深くなってしまっています。
追記2017/04/25)後半の「仕組まれた」的な内容は、虚構だと判断しました。
メスカリトとの交流を通じ、カルロスは徐々に非日常的な状態に親しんでいきますが、同時に自分の存在に対して不安を感じるようになってきます。
世界ってどっちがホンモノ?
荘子の『胡蝶の夢』状態です。
夢を見ていた。蝶になって飛んでいる夢だが、ひょっとして自分こそが蝶が見ている夢なのではないだろうか?
「夢見」については、このシリーズ後半から重要な要素になっていきます。
創作説側からの解釈をしますと、カルロスが後から夢見について付け加えたともとれます。
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わたしが正しい道にいるかと(メスカリトに)聞いたときわたしが言いたかったのは、自分が二つの世界の両方に片足を置いているのか?どちらの世界が正しいのか?生涯どういう道をたどればよいのか?であった。(1964年9月11日)
それに対してドン・ファンは、
お前は自分が二つの世界に生きているというむなしい考えを持っているが、それはお前だけのむなしさなんだ。わしらにはたったひとつの世界しかない。わしらは人間であり、人間の世界に満足して従わにゃいかんのだ。
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と即答します。ドン・ファンシリーズには、ドン・ファンやドン・ヘナロたちによるこのような名言や警句、金言が各所にありますが、『時の輪』などに詳しいので、このブログではあまり扱わないことにします。
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※ここでメモを残しておきます。P179では、メスカリトを「守護者」という呼び方をしていますが、続く巻では別の「精霊」を守護者と呼んでいます。ちょっと記憶があいまいなので、修正前提でいったんおいておかせてください。(pending)
(初出:2016年7月22日「名前の力 (教え 8 メスカリトの教え(2/2))」)