カルロスがインディアン居留地にでかけて留守にすることで私たちはしょっちゅうケンカをした。
少なくとも彼の研究が終わるまではということで、ついに彼は家を出ることにした。
そして7月。
彼は自分のタイプライターや書き連ねたものをもってMadison Ave.のMarietta Apartmentsに引越しをした。
このような状況であれば、むしろその方が好ましいと思った。
私は彼に薬草を家に持ち込むんでもらいたくなかったし、学校も新しい学期に入ったばかりでもあった。
私もSouth Detroitのアパートを去り、Willowbrookに引越しをした。カルロスの住まいとは近いところだ。
この結婚がうまくいかないのは明らかだった。6カ月たったが週末彼はほとんどフィールドトリップで家にいなかったし、何をしているのか言いたがらなかった。
Adrian Gerritsenというビジネスマンに出会い、カルロスに離婚を迫った。はじめ断られたが数週間後に承諾してくれた。
カルロスは、とても簡単に(離婚)できると私に言うと車でTijuana(ティファナ)に行った。
結婚式を挙げたときと同じ担当者に離婚したい旨を説明した。書類を受け取って記入すると役人にカルロスがお金を払った。
彼は、書類が正式に受理されれば離婚が成立すると言った。
私たちはロスに戻った。
その秋と冬、カルロスはフィールドトリップでより多く過ごすようになった。彼がメスカリトと出会ったのはこの時期だと書いている。
1961年の夏ごろにはドン・ファンとの関係が良好だと書いているが、初期の頃は呪術の世界に入ってその儀式のプレッシャーのため憂鬱に苛まれていたようだ。
学校の授業で会う以外はカルロスとはほとんど会うことがなくなり、私がGerritsenと結婚して妊娠したことを知人を通じて知ることになった。
8月12日、Hollywood Presbyterian Olmsted Memorial HospitalでC.J.を産んだ。カルロスが病院に訪ねてきたかどうかはよく覚えていない。
Hollywood Presbyterian Olmsted Memorial Hospital
二年後、カルロスが私を驚かせた。私たちが本当は離婚してなかったというのだ。メキシコでの離婚手続きは、彼のフィールドワークの間、私をごまかすためのインチキだったのだ。いずれ私に告げようと思っていたと言ったが、私がすぐにAdrian Gerritsenと結婚するとは思ってもみなかったのだろうか?
カルロスは、私にまだ公式には結婚していて、誕生した子供は彼の子どもだと言ったのだ。私は麻痺したようになり頭がぐるぐる回った。
そして私たち三人、つまりカルロスとAdrian Gerritsenと私たちが着地点をみつけるまでさらに数週間かかった。
私がようやく事態を受け入れカルロスが私のSoheny Driveのアパートを訪れることを許容できるまで一年かかった。
当初からカルロスは、C.J.に対して強い思いを持っていて、彼の精神的な息子だと言っていた。小さなC.J.が育つのを見るのが大好きだった。
10カ月もするとC.J.は自分の足で立ち、おしゃべりもするようになった。
彼は、学校にC.J.を連れて行くようになった。友人たちがC.J.のブロンドの髪と青い目を指摘すると(私のことは話さずに)母親がスカンジナビア人だと言って説明をしていた。
これは彼がLAで私と付き合う前に付き合っていたGib Edwardsという女性をイメージして話していたのだ。
(初出:2018年7月10日)