Carlton Jeremy(C.J.)は、1964年の9月から学校に行き始めた。公立の学校ではなく、サンタモニカのSaint Sophia’s Montessori School1だった。カルロスが最高の教育を受けさせたいと言ったのだ。
カルロスは、そのために貯金をしていて毎月120ドルをきちんと払ってくれた。
この金は、彼がUCLAでブルホ(呪術師)の研究で得たお金だと言っていた。
実際は、資金繰りでは結構苦しかったはずだ。
彼は、学校で図書の販売をしていてOxford Unionの製品を売り込んでいた。
その売り上げで月々の家賃や食費を賄っていたのだ。
9月の初頭、カルロスが弟子生活を辞める前に、最期のメスカリトとの出会いがあった。それはテキサスとの国境に近い、メキシコのChihuahua州で行われた四回のミトテのセッションのことだ。
ミトテは、研究者にとって特に新しい話ではない。
(ミトテの簡単な歴史とカルロスのミトテ体験をを省略します)
カルロスは、フィールドワークで夥しい数のノートを記録した。それといくらかの写真、16ミリフィルムも少しあったし、テープレコーダーの記録も行ったが、これらの内、大半を持ってないと後に言った。
彼は、フィールドノートを読みやすい形に整える作業をした。
時々、彼は、自分の研究がUCLAから出版されるだろうと自信を持っていたが、あるときは自信喪失して落ち込んでいた。
彼は、内容を面白くするために一人称で書いたが、論理的な部分を示すために注釈を加えて彼が体験した超常的なものはすべてドン・ファンの操作によるもので植物による幻覚だったと記した。
彼の1965年の秋に大学院を卒業して修士を取得する予定を計画した。
だが、彼はお金がなくなってしまい結局UCLAを退学してしまった。
私の友人の一人、Alberta Greenfieldと私は、電話会社に関する本を執筆していた。カルロスも手伝ってくれた。私たちが渡す原稿料でまた大学院に戻れると思っていたのだ。
だがカルロスとAlbertaが気が合わなかったようだ。
この本の作業、ドン・ファンとのフィールドワークとその執筆、C.J.の教育、自分の未来)などでカルロスは頭がおかしくなりそうだった。
1965年の秋にカルロスは、Albertaと大喧嘩して本の企画も流れてしまった。学校も放り出し、呪術師に関するノートの束も放って砂漠に戻ってしまった。
(中略)
1966年の早い時期、私がC.J.をSaint Sophiaを辞めさせてLAを去ろうと思っていることを告げたときカルロスは非常に動揺した。
私は、カルロスのいい加減な約束に疲れていた。私たちの関係はおかしくなっていた。
私は、ワシントンD.C.のテレビ局WTOPのチーフ・オペレーターの職を得た。
「もし坊やを連れて行ったら君は僕の光を奪ってしまう」と9月に手紙をよこした。
(初出:2018年7月16日)
- ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン、ジェフ・ベゾス、ビル・ゲイツ。彼らは、全員モンテソリ教育出身です。 ↩︎