Maya25『カルロス・カスタネダとの魔法の旅』19(3/3)

彼はオアハカを去る一日前に連絡をよこして言った。「僕のchochoとカラスが正しい道に導いてくれると信じているよ。この本はなんていってもchochoのための本だからね

彼が変な比喩を使うことについてはあまり不思議に思わなかった。彼はここのところずっとこんな感じだったからだ。1960年より以前は、彼はこんな話し方をしたことはなかった。例えば「impeccable(完璧な)」とか「warrior(戦士)」や「invincible(無敵な)」といったたぐいのネオ・プリミティヴィズム的な言い回しだ。

だから私は、カルロスが実際にインディアンたちと暮らしていたことを疑っていない。こうした言い回しはそうした生活から自然に生じたものだと思っているからだ。

南メキシコにいる間もカルロスは出版に執着し続けていた。博士号を取れればこれまで批判した連中に一矢報いることができると思っていたからだ。
Oaxacaで三週間過ごしてUCLAに戻ってきたカルロスはQuebecに会って本がついに出ることと1968年に市場に出ることを知らされた。

9月23日にカルロスは、UCLA出版局と契約を取り交わしたことを手紙で書いてきた。

”文化人類学にとって重要な貢献をした”って書いてあるよ。どうだい?これで僕が1965年に中断していた試験をまた受けることができる。こっちの連中は石頭だったけど、ニューヨークのコロンビア大学は僕にPh.D.をオファーしてきているんだ。こっちはもううんざりだ

カルロスは、ニューヨークにも知り合いがいたので移ることを考えたいたが、カルロスを買っていたMeighanやGarfinkelたちは喜ばなかった。

契約が結ばれたことが知られると、みんなはもしもドン・ファンの話が無価値なもの(shuck job)だったらどうしようという恐怖に襲われた。

契約は標準的なものだった。本の著作権はthe Regents of California(評議員)が持ち、著者は出版によるロイヤルティを受け取るというものだった。

大学は本のことをまったく評価していなかったが、もしも本が売れればカルロスに多くの金額が入ることになる料率性になっていた。

契約を済ませるとカルロスは前からほしかったグレーのスリーピースのスーツを買った。
出版まではまだたくさんやることがあった。仕上げの編集にも数週間かかるし、表紙やカバーなどのデザインも決めなくてはならない。

Quebecは、それっぽい写真をあしらったデザインをいいと言ったが、カルロスは却下して大学出版の他の学術書のような、きわめてシンプルにクリームとグリーンの色のカバーにゴシック文字で『The Teaching of Don Juan:Yaqui way of Knowledge』と書いてあるものになった。

11月下旬、カルロスはニューヨークにでかける機会があり帰路、引っ越して1年になるワシントンDCに寄ってC.J.と私と一週間ほど過ごした。

『ドン・ファンの教え』は、早春に出版され、カルロスは例のスリーピースを着てサイン会などに顔を出していた。

本は飛ぶように売れた。これまでCalifornia大学が出したどの本よりも売れた。カルロスはたちまち有名になった。

こんなに売れているのに、カルロスは、まだハリウッドのデニーズでハンバーガーを食べているんだとQuebecに話していた。

カルロスは、Quebecに続編を書いていると話した。
Quececはカルロスが代理人を持つべきだと考えてNed Brownを紹介した。

Brownが言った「カルロス、君を有名にするよ
カルロスは「そうじゃなくて、僕はお金が欲しいんだ」と答えた。
Brownは、ちょっとびっくりしたが謎の男と自分は波長が合うと感じた。

(初出:2018年7月21日)