C.J.カスタネダ(C.J. Castaneda)は、大きなグラスで水道水を飲むと、キッチンの照明を消してアトランタ郊外の家の二階にあるベッドルームに向かった。
1998年4月27日の午後10時30分だった。
いつものような長いつらい一日の終わりだった。
ブロンド、目は青く、36歳で痩せていた。
元不動産鑑定士だが、いい生活を目指して発明もしていた。
天才的なIQの持ち主で最近ドライブスルーのコーヒー販売チェーンの事業を始めた。遠方にある各企業へのロジで彼はあちらこちらへ飛び回り週七日、朝から晩まで働き詰めだった。
彼のハンサムな顔にも陰りがみえてきていた。ボディビルディングで鍛えた腹のあたりも少し柔らかくなってきた。
ため息をついてベッドの横に坐わりもぐりこむと妻のLisaにキスをしておやすみを言った。
いつもの習慣で、彼女は就寝の前、30分は読書をすることにしていた。
C.J.は、目覚ましを4:40にセットした、寝具を頭に引っ張り上げた瞬間、眠り込んでしまった。
ほとんどの人が知らないことだったが、Carlton Jeremy Castanedaはカルロスの養子だった。
彼は、Margaret Runyan とAdrian Gerritsenというモルモン教徒のビジネスマンとの間に生まれた子供だった。カルロスの人生の大部分がそうであるように、C.J.の誕生もまたこみ入っていた。
カルロスとマーガレットがメキシコで結婚した半年後。
(結婚が1960年1月なので1960年7月)
ある日の午後、カルロスがアパートに戻ってくると、メキシコ国境に近いアリゾナのグレイハウンドのバス停で年老いたインディアンに出会ったと興奮した口調で彼女に話した。
カルロスはUCLAの文化人類学部の学部生でカリフォルニア民族誌という授業を受けていた。
彼の教授は、もし卒論のために実際のインディアンの情報提供者を見つけた者には成績Aをつけてやると約束したのだ。
何カ月もカルロスは古代から伝わる幻覚性植物について教えてくれる現地の賢者を求めて砂漠地帯に出かけていたのだ。
かつては偉大な芸術家を目指していたが、カルロスは方向を転じて文化人類学の教授になりたいと思っていた。UCLAには優秀な学部があった。
砂漠での出会いは、彼のキャリア形成のいい兆しに思えた。
もちろんマーガレットは、考えが異なっていた。彼女は深くカルロスを愛していた。
彼に家にいてほしかった。これは彼女の三回目の結婚だった。
とてもロマンティックなはじまりだったが —— 深夜メキシコの治安判事の元で婚姻を行うために車を飛ばした時が最高潮だった —— その時、すでに関係が崩れ始めていた。
カルロスが他の女性と会っているのではないかという疑いに加えて、二人の予定がまったく合わないというのが大きな問題だった。
マーガレットは電話交換手として日中はたらき、カルロスは日中は学校に行き、夜はロスのドレスショップで会計担当として働いていた。
そして、この多忙な予定に加え、カルロスは週末をこの謎の老人と砂漠で過ごすことにしたと伝えたのだ。
喧嘩や不和が絶えず、すぐにカルロスはアパートを出てしまった。
マーガレットはユタ出身のモルモン教徒で背が高くハンサムなGerritsenとつきあいはじめた。
Gerritsenは、衣服関係の仕事に就いていてバイヤーとして頻繁にLAに来ていた。
Gerritsenを好きになりマーガレットはカルロスに離婚を申し出たところ、驚いたことにカルロスは受け入れてくれた。
彼らはふたたびメキシコにドライブし同じ治安判事の元に出向いた。
しかし、マーガレットは知らなかったことだが係官は離婚の正式な手続きを済ませていなかったのだ。
これもまたマーガレットが知らなかったことだが、Gerritsenはもともとカルロスの知り合いだったのだ —— 彼らの出会いをアレンジしたのもカルロス自身だったのだ。
その上、カルロスの死後に行われた遺言の検認においてGerritsenは、カルロスがGerritsenにマーガレットと子供を作り、その子供をカルロスの養子にさせてもらうことを頼んでいたと証言したのだ。
Amy Wallaceの著書によると、カスタネダは、精管切断の手術を行っていたようです。
パイプカットは、また元に戻せると聞いたことがありますが、検索してみるとそんな簡単なことではないようです。
パイプカットの時期がマーガレットとの結婚以前とすると、子供がほしくても自分はできないので、知人に頼んだということのようですが、子作りの相手までカルロスに企まれていたとみると非常に気色の悪いいきさつです。
Gerritsenという男性はどういう料簡でそんな非常識な頼みを引き受けたのでしょうか?